卜然山房

基本的に与太話しかしません。

 YouTubeで中国史に関するチャンネルを運営されている鳥人間氏の動画はよく拝見しているが、この回は易経を含む占術書一般にも当てはまる内容で、同好の士におかれても非常に参考になると思うので、シェアさせてもらうことにした。


【ゆっくり解説】 偽書の中国史 テキストをめぐる学者たちの死闘 【中国史】
https://www.youtube.com/watch?v=mIiRBfAAJYk


 始皇帝の焚書のときに易経本文は別として十翼あるいはその原型になったテキストの多くは焼かれたと推測されるが、その後おおくの経書が復活しているのを見ると、学者たちが竹簡などを隠し持っていて、そこから復元されたのだろうと漠然と考えていたが、そうではなく、学者が暗記していたのをもとに復元したという。これには驚いた。このとき、古文から今文に切り替わっていて、復元作業にもその影響が及んだという。

 その他にも、いわゆる作者の仮託や偽書(矛盾)の見破り方などへの言及がありとても面白い。

 統一教会を擁護する人たちがとにかく持ち出すのが内心の自由だ。その人がどんなことを信仰しようが自由であるというのだ。たしかに、国があの宗教はよい、あの宗教は悪い、と決めつけて優遇したり冷遇したりするのは好ましくない。かつてそういうことをして国が機能不全に陥った、欧州中近世の反省があるし、西側社会が大切にしてきた自由の概念にも反する。

 たとえ邪教だろうと真摯に信仰することで何らか学ぶことはあるかもしれない。老境にさしかかって自分の信仰は(一部または全面的に)間違いだったと気づくというのは悲劇かもしれないが一つの人生ではあると思う。こういう自由は人間の成長に必要なものでさえあると思う(オウムの死刑囚にも何らかの気づきや成長があったと僕は思っている)。このことは思想信条に置き換えてもいいだろう。

 内心の自由、信仰の自由はとても大切なものだ。それは間違いない。しかし、そもそも論として、統一教会は「信仰」なのか。僕は信仰と呼べる代物ではないと確信している。オレオレ詐欺に近い。まさかオレオレ詐欺を「立派な商行為だ、被害者は納得して支払ったのだから」、などと云って擁護する人はいないだろう。虚偽を前提とした信念(認識)を植え付けて大金を振り込ませているのだから。

 統一教会の信仰も「虚偽」である。それは簡単に分かる。まず反共を掲げて熱心に活動してきた団体が他方で労働党一党支配の北朝鮮と繋がっている。宗教活動にはカネが必要だと称して高額献金を正当化してきた団体が、なんと政府に100億円の拠出金を提案できるほど溜め込んでいる。日本はかつて朝鮮半島を植民地支配していたので重い原罪がありその償いのために献金しなければならないと教える団体が、植民地支配は強制で始まったものではなくしかも半島の発展に大いに寄与したと主張する人々が熱心に支持する安倍晋三と濃い繋がりを持っていた。監督省庁である文科省の質問に対してまともに答えなかった教団が、解散命令はおかしいと強気の会見をひらいた数日後、深く反省していると称して100億の拠出を提案してくる。

 言ってることとやってることがメチャクチャである。教団は自分たちの主張を信じていないことがわかる。信じていればこれらの言行不一致に対して深い葛藤に陥るはずだがそんな様子は露もない。そもそも成立していない教義にもとづき人様に虚構の信念を植え付けて高額の献金を集めるのは信仰ではない。オレオレ詐欺の類である。

 かつてカトリックは免罪符と称する高価なお札を買えば地獄行きを免れると言って信者に多額の寄付をさせていた。真摯な宗教者たちからそれはおかしいという指摘が入り、論争が起こり、プロテスタントが始まり、キリスト教正常化の契機となった。人類はすでにそういう経験を経てきたのだ。統一教会の騒ぎは、それを10倍も劣化させたものと言うことができるのではないか。こんなことをざわざ繰り返したところで人類にはなんの利益も学びもない。(余計なお世話だが某世界的宗教もなるべく早く宗教改革を行ったほうがよい)

(補:むろん在来の宗教にも多かれ少なかれ矛盾はある。しかし統一教会の場合はあまりにも矛盾のレベルが低い。教団は知性か良心、あるいはその両方が欠如しているのではないかと疑わざるを得ないレベルだ)

(補:宗教は理屈ではない、信じるものだ、という人があるかもしれない。しかしそういう人は信じればこそ疑えるものだということを分かっていない。子供が明らかに嘘をついているとき、それでも子供の言葉を信じるのは愚かな親だ。なにが事情があるに違いないと注意ぶかく見守るのが賢い親だ。教団・教義に対する信者の振る舞いもこれと同じであろう。矛盾するうち一方が間違っているのかもしれないし、相克をアウフヘーベンすべきなのかもしれない。しかし統一教会にはその手の葛藤とそれに対する知性の働きが感じられない。まったく感じられない。異様なほどに)

 統一教会は邪教ですらない。洗脳詐欺集団だ。日本社会から排除すべきである。と同時に、現信者には、さっさと目を覚ましてくださいと衷心より申し上げる。その経験、その失敗はあなたになんの成長ももたらさない。僕はそれをあなたのためにとても悔しく思う。

 タイトルでちょっと煽ってみたが(殆どだれも見ないブログで誰を煽る?笑)、この考え方は増刪卜易に示されている。卜占の本質が対話にあることがよく分かるので、グダグダを承知で以下にまとめてみた。

   ***

 阪神の一勝二敗で迎えた日本シリーズ第四戦は、結論から言うと阪神4x-3オリックスだった(大山大好き。大山は男のなかの男)。阪神が先制して並ばれ、突き放して並ばれ、のタフなゲームだったが、この勝敗を占って最初に以下の卦を得た。

  戌月癸亥日、未済の晋に之く

  白 ヽ 兄巳 応
  騰 〃 子未
  勾 ヽ 財酉
  朱 〃 兄午 世 (官亥)
  青 □ 子辰 ⇒ 兄巳
  玄 〃 父寅

 僕は阪神ファンであり阪神が負けると僕ががっかりするので世爻を用神としている。応爻がオリックスだ。この卦は極めてわかりにくい。独発は世爻・応爻の原神でも忌神でもない。それが月破から日破に変じる。この爻が散じて不変卦と見なすならば、応爻は休囚といえども日辰から冲されて暗動しうる。こうなると世爻が不利だ。

 しかし世爻のもとには日辰が伏せている。普通、伏神は用神にあたらない限りは推さないものなのだが、僕はこういう卦を得て(飛神が休囚・空亡などで伏神が日辰・月建、提抜するしないを問えば間違いなく提抜するかたち)、たびたび伏神が世爻を持って勝つという結果になっていて、これも例に洩れず阪神が勝つのではないかと感じた。しかしあくまで個人的な見方であり、一般的な断易のルールではない。

 断が下せないので、再占した。次に得たのは以下の卦だった。

  戌月癸亥日、既済の小畜に之く

  白 × 兄子 応 ⇒ 子卯
  騰 ヽ 官戌
  勾 〃 父申
  朱 ヽ 兄亥 世 (財午)
  青 × 官丑 ⇒ 子寅
  玄 ヽ 子卯

 世爻を見てほしい。なんと日辰が入っている。これは最初の卦を見て生じた、伏神の日辰が提抜して世爻を持つのではないか、という疑いにズバリ答えている。易神は「そのとおり」と言っている。(加えて、官鬼が回頭の剋で剋去され、応爻は互刑に変じている)

 断易の再占は、こういう風にして当たることが多い。つまり、卦を読むうえで判じきれないところが、二回目の卦ではっきり示される、という。従って断易で再占するときは、どこがどのように微妙なのか、その場所とロジックを明確にしてから臨むべきである。

 ただし、最初の卦でも二つ目の卦でも、世爻と応爻が同性で、かなり微妙な試合になった。七回に3-3で並ばれたときは万事休すかと思った(日辰が提抜して世爻を持って勝つ、というからには、これはもう負けだと絶望する局面もあるということか)。微妙な試合は微妙な卦が多く、ほんとうに読みにくい。続きを読む

 八月に長野県で女子高生が書置きを残して失踪した。九月下旬に報道が出て、22日に断易で安否を占ってみた。こんな卦だった。

  酉月癸未日、咸不変

  白 〃 父未 応
  騰 ヽ 兄酉
  勾 ヽ 子亥
  朱 ヽ 兄申 世
  青 〃 官午 (財卯)
  玄 〃 父辰

 これに対する占断・添え書きは以下のとおり。

 応爻に日辰が臨み、健在と思われる。二爻の官鬼と相合で、男のもとにいるのでは。冲散冲開の丑月か丑日に戻ってきそう。
 周易的には、小過を基準卦として五爻が変じており、「密雲不雨、自我西郊。公弋取彼在穴」とあるので西側にいて公的機関つまり警察が探し出すと読める。

(冲散冲開とあるが、冲開冲起の間違い)

 結果は、10月29日(壬戌月庚申日)の朝、長野県警が宮城県仙台市でこの女子高生を保護したとのこと。

参考リンク:ヤフーニュース、信州テレビ
https://news.yahoo.co.jp/articles/42a8acb76fcc75b3a876e9a62d75f255153b1f8e

 男のもとにいたようで、男は現在、未成年者略取の疑いで捜査されているとのこと。応期と方位は当たらなかったが、その他は的占としたい。

 もし応期の申日をもとに筋を通すなら、応爻ではなく世爻の兄弟申金が用神になっていた可能性がある。占った日の癸未日は申酉が空亡である。また僕がこの報道に気づいたのは11月2日の零時過ぎで、甲子日の甲子時になる。いちおう子も官鬼の午を冲して午未の合を解くので、筋が通るといえば通る。ただ、戌月はちょっと出てこない。

 ちなみに小過を基準卦としたのは、卦辞に飛鳥これが音をのこすとあり、行方不明の占にたびたび出ており、また大坎であり、行方不明の義があると考えられるためである。

   ***

 なにはともあれ無事でよかった。この手の占いで、後味が悪くないというのは、とてもいいことだと思います。

 ダウジングは世界で愛好されている占術だと思うが、なぜか古典らしい古典がない。これはキリスト教の影響もあるかもしれないが、それにしても有名どころの占術にはすべて権威を持つような立派な古典があるもので、ダウジングにだけないというのは妙な感じがする。

 しかしながら最近思うに、卜占なども占いの手続きや解釈法、実例などは詳細に論じられているが、問いが起点になって、占いの手続きに従って選ばれる象徴群の配列に、答えを示唆するような明確な傾向が現れる、ということについては、あまり言及と考察がない。易経の繋辞伝、増刪卜易全般、それから梅花易数、高島嘉右衛門の著書等には記述があるものの、それ以外はなかなか思い当たらない。

(これらはすべて易に関連するものだ。従って、占術としては易がもっとも進んでおり、上等なものだと思う。共時性の概念を説いたユングも数多ある占術のなかでもとりわけ易を愛好した。ほかの占術を見下すつもりは毛頭ないが、僕個人は、易は古今東西もっとも高等な占術のひとつである、という考えを支持したい)

 さて、ダウジングというのは他の占術と比較してかなり特殊なところがある。易その他の占術は偶然の一致(共時性)を利用するためその受容器として複雑かつ多様な象徴体系を持つのが普通だが、ダウジングにはそういうものが一切ない。右にまわればイエス、左にまわればノー、分度器の角度に合わせてそこに記されている数値を示す、という、かなり直接的なものだ。そこには解釈の余地などない。サイコロやコインを投げたりカードを捲ったりという乱数性とも無縁だ。

 ダウジングは唯一、外的な共時性を介さず、直接、潜在意識からのリアクションを(不随意筋でもって)拾うものであり、占術というよりはサイキックや直感術のほうに近いかもしれない。しかし、長くやっている人は同意してくれると思うが、ダウジングは決して無秩序で摩訶不思議なものではなく、ゴルフや野球のスイングのように、うまくやればよい結果を得られやすく、雑にやれば雑な結果になるという、明確な傾向がある。つまり、筋の通ったものなのだ。だから超自然なものでも霊的なものの関与を必要とするようなものでもない。そのように僕は確信している。

 実際のところ、ダウジングも卜占や外応とおなじで、問いが起点になる。卜占では興味のあるものや必要のあるものほど上手く占えるものだが、それはダウジングも同じだ。他方、大して興味のないことを練習で占う場合には結果が伴わないことが多い。そこで「問い」の質が問われることになる訳だが、僕の実践経験によると、「問いかた」の良否において、ダウジングと卜占、外応は、なにも違わない。

 複数の卜占をつかって一つのことを占うと、たいていは悉く外れるか悉く当たるということになる。これはつまり、問いができていればどの卜占を使っても機能するし、逆にできていなければどの卜占を使っても機能しない、ということに他ならない。

 つまり、「問い」の質が、卜占やダウジングの当否を決めるのである。知らんけど。

(もちろん卜占には理解の正しさとそれに基づく適切な解釈が必要になるし、ダウジングはペンデュラムを意識的に揺らさず静かに揺れを待つ忍耐力、ペンデュラムを静止状態で持ち続ける慣れ、揺れかたとその意味のていねいな紐付け・確認作業などが必要になるが)

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 尋ねよ、されば見出さん!!!続きを読む

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