卜然山房

基本的に与太話しかしません。

 金口訣では大六壬の旧い起貴人法を用いる。すなわち甲戊庚を昼丑・夜未とし、辛壬癸の昼夜は他の干と逆になっている。構造を見れば、明らかに三奇の組み合わせを意識していることが分かる。三奇はほかに乙丙丁の組み合わせがあるが、これは奇門遁甲の日月星奇にあたる。ちなみに奇門遁甲の十干剋応では甲と戊を同一視する。六壬では、それに庚を加えて三奇。起貴人法は、明らかに奇門遁甲と関係があると言える。

 他方、起貴人法は、十二支をぐるっと円状に配置したとき、辰から戌へのラインを挟んで、亥酉(丙丁日)、子申(乙己日)、丑未(甲戊庚日)、寅午(辛日)、卯巳(壬癸日)というふうにペアになっている。ちょうど六合が、子丑と午未のあいだにラインを引いて、寅亥、卯戌、辰酉、巳申と組まれてゆくのに似ている。

 ちなみに六合は太陽と十二黄道に関係しており、恣意的に決められている訳ではない。西洋占星術にもおなじ組み合わせがある。おそらく、起貴人法にも、辰戌のラインを軸としている何らかの理由があるのだろう。

 いずれにせよ、起貴人法は、辰戌のラインを軸とした太陽の昼夜のシンメトリーと、奇門遁甲の三奇を組み合わせて作られたもの、と考えて間違いないだろう。それらが失われた殷周時代のナラティブに基づいているとするなら、その理由はもはや永久に知ることができない。

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 僕が個人の占いに用いている起貴人法は、庚日を辛日に寄せ、辛壬癸日の昼夜をもとに戻したものだ。すなわち、古法から三奇の影響を排したものと言える。

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 ちなみに僕はほぼ全ての占術で旧暦月建を取っており、大六壬や金口訣においても旧暦月建の合支を取っている。太陽の動きとはズレが生じるけれども、むかしの占術書を見ると、ほぼすべてにおいて、暦月と節月を分けていないように見受けられる。応期を言うときは子月とはいわず十一月みたいに言うし、生まれが五月壬寅日戌時とあれば普通に午月となっている。つまり日付をあらわすための月と干支上の月がいっさい区別されていなかった様子がある。占事略決も正月徴明云々つまり何月節ではなく何月という表記である。何月節とわざわざ挿入されているのは卜筮正宗くらいだ。

 太陰太陽暦の構造上、暦月と節月が異なることくらい古くから明らかだった筈だが、それでも昔の人は暦月を使って占いをしていた。ということは、本来そういうものなのだ。清代になって節月が徐々に取られるようになったからといって、それは発展とは限らない。少なくとも新発見に基づくものではない。むしろ陰陽五行論的には後退かもしれない。単に太陽の動きが最重視され、月の動きが無視されるようになった、というだけのことだ。

 季節と月。どちらも重要ではあるが、完璧に並び立たないとするならどちらを重く見るべきか。僕は「月」を選びます。暦も占いも、「陰」陽五行説に基づくと考えるからです。干支暦から月/太陰を排除してしまったら陽五行説になってしまう。それに暦月を取ったからといって、季節が否定される訳ではない。太陰太陽暦はたしかに折衷的なものではあるが、しかし東洋の様式とはそういうものではないだろうか。白黒はっきりつけ、理路整然とまとめあげるのを是とするのは西洋の価値観に過ぎない。

 日本時間で16日の明け方、プレミアリーグ二位のマンチェスターシティが、首位のアーセナルと、アウェーのエミレーツスタジアムで対戦した。勝ち点差は2で、シティが勝てば首位に躍り出る。他方、アーセナルには日本人DFの冨安が所属しており、注目が集まった。

 試合時間に合わせて起きるつもりだったが少々寝過ごし、試合開始から15分くらいしてから見始めた。スコアは0-0。ただちに銭を投げて勝敗を占った。ちなみに僕はシティ贔屓なのでシティを世爻とした。立ったのはこんな卦だった。

  寅月乙巳日、比の萃に之く

  玄 〃 財子 応
  白 ヽ 兄戌
  騰 × 子申 ⇒ 財亥
  勾 〃 官卯 世
  朱 〃 父巳
  青 〃 兄未

 独発が応爻アーセナルを生じており無情だ。しかしこの卦には微妙なところが幾つもある。世爻シティは旺相で官鬼の空亡であること。子孫が動き来たって世爻の官鬼を剋すれば悩みを去る象がある。また空亡なので避の意味もある。しかしなんといっても、応爻の原神である独発申と、日辰巳、月建寅で三刑を為すことである。

 この卦を見ただけでは事象までは読めなかったが、三刑の爻が応爻を生じるのは必ずしも応爻にとって望ましいことではないだろうと思った。微妙ではあるが、半分期待も込めて、シティの勝ちではないかと判断した。

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 直後、試合が動いた。なんと日本代表の不動のCB冨安が、まさかのクリアミス。これをデブライネが抜け目なくループシュートでゴールに叩き込み、シティが先制。冨安には悪いが思わず拳を高々とつきあげた。その後、シティはキーパーエデルソンの守備が行き過ぎてPKを献上してしまい同点に追いつかれるも、後半70分、グリーリッシュのシュートを冨安が触ってバウンドが変わり、キーパー対応できず、勝ち越し。さらに80分、ギュンドアン、デブライネと繋いでおりかえしたボールに俺たちのハーランドが合わせて追加点。シティは3-1で勝利をおさめ、リーグ首位に立った。うおおおお! ただ冨安にとっては散々で、現地のアーセナルファンからひどく批判されているようだ。試合中、同僚からも小突かれていた。

 改めて卦を見てみると、恐らく三刑の爻が応爻を生じるのは、チームを助けるつもりのプレーが却って仇となり、批判を招くという意味だったのだろう。他方、世爻は官鬼だが空亡で凶意が滅び、旺相なので空亡それ自体は問題にならず、忌神の剋が避として機能したということだろう。

 増刪卜易には三刑はあまり験がないとあるが、こういう形で事象がはっきり乗る場合もある。三刑はルールとして有効か無効かだけで考えてはいけないのだ。この卦のように、明らかに三刑がドーンと出ている場合には、それを重視する必要がある、ということだろう。

 冨安には残念だったが、シティファンとしては最高の朝になった。

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 しかし、この卦のみならず、勝負占は簡単に当てさせてくれない。大一番ほど、腹を据えて卦を読む必要がある。微妙なところを無視し、うわっつらだけ拾って安易に判断すると、必ずハズしてしまう。とくに観戦する予定の試合は、卦が試合の内容や経過まで織り込んでこようとするので、却って勝ち負けの判断が難しくなる。だからこそ面白く、やりがいもあるのだが。

 試合占は一生の娯楽です。

 最近、金口訣の登板回数が増えてきた。四柱を書き出して地分を取るだけで占えるし、手元に紙がなくても出来るし、しかもよく当たるので、必然的にそうなる。で、ふたつのちょっとした気づきを得たので、メモっておく。

 まず第一に、金口訣で課式を出したら必ず象をチェックするべきだということ。株占をやっていて、酉、己巳、乙亥、癸というのが出た。辰巳水空亡だ。財爻への剋すなわち賊動があり四位に死なので、これはどう見てもダダさがりの形だ。しかしこの課式には水が枯れた滝の象がある。正直、決算やら同業他社の値動きやらADRやらから、その日高く寄りついて高値を追っていく展開になる可能性が高いのは分かっていた。そこで利食いするかどうか(売り損ねてマイナスに転じるなどという間抜けは避けたい)を問題にしていたのだ。その文脈を考えれば、これは枯れた滝であり、高値から落ちることはないと読むべきだ。しかし普段ほとんど象で判断するということはしなかったので(それで十分当たっていた)、今回も下落すると見て早々に売った。が、その後の値動きを見ると、枯れた滝、フォールダウンはないと判断するのが正しかったようだ。象が見えたら象を取らないといけない。まして空亡は神機を蔵する。

 第二に、地分、将神または貴神の用爻でないほう、人元の三つは、大六壬の初伝、中伝、末伝のように見ることができる、ということ。つまり時間的変化だ。ネットショッピングでトラブルがあり、どうなるかを占ったところ、亥、壬午、甲申、丁というのが出て、これがよく分からず再占し、酉、己卯、丁亥、乙というのが出た。いずれも用爻は将神で、似た構造をしている。地分から剋され、貴神に対しては有利な関係にあり、人元と比している。金口訣は下から上へと時間が進んでいくと見るが、いずれの課式も、地分に剋されて問題が持ち上がり、貴神(すなわち店側)を制してこちらの要求が通り、人元と比して求めるものを入手する、と読むことができる。実際、その通りになりそうだ。

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 金口訣における課式内の時系列には少々矛盾がある。たとえば連珠や三奇三合は上から下に並ぶのを順とし、下から上に並ぶのを逆とする。他方、課式を作るうえでは地分が始まりで人元が終わりだ。構造的に、四位が易の爻に準えられていることは明らかなので、下から上へ進むのを順とすべきではないか。もちろん占事や事象にもよる。上は上、下は下なので、上から下への働きかけは下達、下から上への働きかけは上申とすべきであろう。正比・近比・次比・遠比についても、下を内、上を外とするのが一般だから、遠近が違うのではないかという気がしないでもない。このへんの運用は事象をよく踏まえる必要があるんではないかと思う。

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 金口訣で公営賭博の目を占って的中し(オッズを見るまえに占った)、上機嫌で課式を見直していたら「癸午」なんてやらかしていた。金口訣は課式を間違ってもそのまま占えと云われるが、間違った箇所に神機が宿るのはガチのようだ。従って金口訣だけはどうあっても手書きでやらないといけない。

 謙卦をどう見るかを尋ねればその人の易観ひいては世界観がだいたい分かる。六十四卦にはすべて両義性があり、各卦はそれぞれ一つの属性を示すというよりは一つの物差しを提示していると考えたほうが分かりやすい。坤は従順の意であるがその裏に獰猛さを孕む。自然がときに人間に猛威を振るったり、あるいはスピッツが「運命の人」を優しいだけじゃなく偉大な獣とうたったりするようなもので、その位相は上爻の辞に見える。というか上爻の辞がなかったら坤は嘘になる。従順だけを説いて従順さがときに獰猛さに変わるということを無視すればそれはかえって非現実的で、とても浅いものになってしまう。易は窮すれば変じ、変じれば通じるのである。それは六十四卦すべてにおいて変わらない原則だ。

 さて謙だが、これは奇を衒わず謙虚謙遜の謙であると見てよいと思う。ではどうして五爻上爻に侵伐や邑国を征するなどといった言葉が見えるのか。これは謙をひとつの属性としてではなくものさしとして見れば理解しやすい。人が謙虚になるとすれば謙虚を強いられる何らかの事情があるはずなのである。謙虚とはただ独立して存在するものではない。その人が置かれた場面や状況、立場と切っても切り離せないものだ。

 ひとが謙遜を示すとき、だいたい二つの理由による。一は礼=敬意のあらわれとしての謙遜。二は力関係上、謙遜せざるを得ない状況に置かれていること。前者のみであれば易占を仰ぐような問題にはならない。蓍を取るからにはだいたい二の事情を孕んでいるものである。

 君子(この場合は要人)の振る舞いは大勢の人間が見ている。あるいは耳をそばだてている。一方が居丈高で、一方が謙遜を示せば、衆目はたいてい謙遜のほうに同情的になり居丈高なほうに反感を持つ(鬼神は盈を害して謙に福いす、とも言う)。これがしばらく続いたらどうなるか。謙遜(注意、卑屈ではない)を示しつづけたほうが政治的に圧倒的優位に立つことになる。こうなれば軍事に訴えることができる。明らかに非は居丈高のほうにあるとなれば、みな謙遜の側につくだろう。そこで邑国を征したり侵伐することができる。これが老子のいう、奪うにはまず与えよの意味だ。(ただしやりすぎてはいけない)

 あるいは筋を通し、和解を模索し、それでも解決せず、万やむを得ないときには白黒をはっきりつける行動をとってもよい、ということだ。謙は謙虚であり卑屈ではない。調子に乗る人間は自身のつくった罠に自身でハマるだろう。

 現代政治ではアメリカのことを考えれば分かりやすい。ただ傲慢であるせいでアメリカは無駄に敵を作ってきた。最近になってようやくその愚を悟り、対ロシアでも対中国でも抑制的に振る舞っている。そのため東アジアでも欧州でもアメリカは反発を受けていない。むしろ批判はロシアと中国に集まっている。アメリカはこのまま抑制的に振る舞って時期を待てば、自ずとロシアや中国をいなすだろう。少なくとも傲慢に振る舞うよりはよほど国際社会の支持を集めやすいはずだ。第一次、第二次の世界大戦のときのように、各国がアメリカに立って欲しいと望むようになって初めて動けば、イラク戦争やベトナム戦争のような愚はおかさないだろう。消極的なゆえに人の先に立つのである。消極的ゆえに敵を制するのである。老子や孫子、坤の卦辞にあるとおりだ。

 こういう力学は政治の場面に見出しやすいが、人間のごく個人的な態度にも見ることができる。習い事の講師さんがよく言うのは、最初から熱心さをむきだしにする生徒は続かない、理解がひとより遅い生徒のほうが却って長く続き、基礎もしっかり身に付けるため、のちのちよく伸びる、ということだ。こういう経験を何度もすると、人は見かけの印象だけで判断しなくなる。なんでも逆を張ればよいというものではないが、よく観察して先々を考えれば、かならずしも不利は不利でなく、有利は有利でないと分かるのだ。これが易の知恵、老子の知恵であり、儒学にも取り込まれた老成的人間の哲学なのだ。

 易は陰陽の学だという。陰陽とは二項対立のみならず両義性をも意味する。積極と消極、有利と不利、明と暗は人間世界において、あるいは精神のうちにおいて、一般に思われているよりよほど流動的に入れ替わるのだ。その知識をもってわが振る舞いを決めるから無事長久が望める。その視点をもって世を見渡すから「兆し」が読める(ことがある)。

(裏返せば、人を攻撃するばかりで謙虚さのない人間は易のことなどなにひとつ分かっていないのだ。「偽物」を見分けるときに役立てて欲しい)

 金口訣で占いをするには、まずは地分を取らないといけない。目についたものを五行に変換するまでは簡単だが、それをさらに十二支に分けるのはなかなか難儀だ。土支などは四つもある。目のまえにあるものから土をとったとして、そこからどうするか。

 丑辰未戌のうち、丑未は陰、辰戌は陽だ。従って、それが硬いものか柔らかいものか、男性的なものか女性的なものか、積極的なものか消極的なものか、攻撃的なものか守備的なものかで分けることができる。ここまでは誰でも思いつくし、他の四行の陰陽を分けるときにも有効だ。

 さて、問題はここからだ。丑と未、辰と戌をどう分けるか。結論から言うと、これらは燥湿や寒暖で分けることができる。暖かいものや乾燥したものは未戌、冷たいものや湿ったものは丑辰とすることができる。つまり火性か水性かということだ。

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 故あって金口訣を使って幾度か私事を占ったのだけどやっぱりよく当たる。なにより迅速なのがいい。八字を書き出して地分を取ってくれば即、占いにかかれる。最悪手元に紙がなくても脳内のみでやれないこともない。この辺りは奇門遁甲に較べて非常に優れていると感じる。

 金口訣はこんだけ優れた構造をもった占術なのに何故か流行らない。謎である。こういう術こそほんとうの漏洩すべからざる「天機」なのかもしれない。

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