増刪卜易の野鶴老人は、もしあなたが占い師で日にたくさんの卦を立てる/見るならば、分かりにくいものが多々出るので、断易の理に精通して慎重に読まなければならないが、たんに自分のことを占うのであれば、はっきりと出るものである、みたいなことを言っている。これはまさにその通りで、本番の占いでは割とわかりやすい卦が出て、判断もあまり間違わないものだが、練習の(というか、本番以外の)占いでは非常に紛らわしい卦が出て、卦読みもミスしやすいものだ。ではこういう卦は不応であるのか、読めないのかというと、そんなことはない。ただし、高度な卦読みの力が必要になる。

 本番の占いでは、周易では爻辞や六十四卦の大意をとる程度で、断易では用神にフォーカスするシンプルな占い方で十分間に合うが、練習占では到底捌ききれない。だから「わかりにくい卦」を読むには、周易では象占などの象数的な占法に、断易では増刪卜易のような全体を見る占い方に詳しくならないといけない。

 しかしこれがなかなか難しい。いずれにしても、的中率を上げるには、①占機の捉え方を研究してなるべく分かりやすい卦が立つように工夫する。②卦読みの腕を磨いて少々分かりにくい卦でも捌けるように工夫する。この二点において不断の努力が必要になる。

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 一占一占に十分な間隔をあけて、純粋に興味を持ち、占事に係る状況を一通り把握したうえで、余計なことは考えず、真面目にかつ丁寧に卦を立てれば、おかしな卦は絶対に出ない。嘘だと思うかもしれないが、本当に出ないのである。ただし、それが読みやすい卦であるとは限らない。

 いずれにせよ、卦を応・不応で分けるのは恐らく間違いで、分かりやすい・分かりにくいという軸で分けるべきだと思う。言い換えれば、分かりやすい卦しか相手にしないという人にとっては、占いは決して濫用すべきではないし、当てモノにも使うべきでもない(そういうのは不応=卦が立たない)、ということになるし、分かりにくい卦でも読み切って当てていこうという人にとっては、不応などというものはほとんどない、ということになるのである。

 増刪卜易と卜筮正宗を比較したとき、術としての大まかなアウトラインはほとんど一緒だが、細部では大分異なっている。また周易においても、おなじシステムと易経を共有しているはずなのに、高島流、白蛾流、大岳流、真勢流ではそれぞれかなり違う。もし、占術の判断のルールには唯一の正しいものがあって、それ以外は全て間違いだとすると、非常におかしなことになる。現実には、判断のルールは細かいところまで確定できない、というのが正しいのだと思う。なぜなら、占いはすべて本質的には「象占」だからだ。易神はデジタル信号によってではなく、なにかを象ることで答えを告げようとする。言葉のルールは厳密に規定できても、絵の描き方や解釈法なんてのは規定しようがない。それを苦心して形式化して、占機がしっかり取れているときには分かりやすい形で出るようにしたものが、爻辞占であり、また用神にフォーカスするシンプルな断易なのだと思う。だからこれらの(あまり融通の利かない)占法をとると、少しでも占機が取りにくい状況で占ったりすると、とたんに卦が乱れることになる。

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 従って、断易や周易をシンプルにやっていくつもりの人は、練習占は必ずしも必要ないどころか、混乱の元になるからしないほうがよい、ということになる。本番にのみ使うべきだ(もちろん経験を積むことは必要だろうと思うけれど)。しかし、分かりにくい卦でも読み込んで当てていくつもりの人は、積極的に練習占をやるほかに道はないだろう。

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 まあ、僕は誰になんと言われようとガンガン練習占をやって誤占しまくりますけどね……。

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 それと、誤解があるといけないのでいちおう書いておこうと思うのですが、僕は基礎・基本は非常に重要であると考えています。周易にしても断易にしても、基礎・基本が分かっていなかったら易神がなにを言わんとしているのかも分かりっこありません。八卦の象意とその理由をちゃんと分かっているから八卦を推せる訳です。日本語が分からないと日本人と対話できない、というのと似たような話です。しかし、勉強だけで日本語を学んだのでは、微妙な言い回しや逆説的な言い方は理解できないはずです。そういうのを指して、僕は通変が必要だと言っているわけです。けっして、なんでもアリ、直感と超感覚でゴリゴリ読んで、当たればいいんだよ、という意味で言っているのではないので、どうか誤解なきよう。細部に必要以上にこだわらず(揚げ足をとるような読み方はせず)、大意を読み取っていく訳です。それが僕の今のところの考え方です。