卜然山房

基本的に与太話しかしません。

カテゴリ: 読書感想文

 おれたちのスコット・メレディスの太極拳掤勁養成法を読んだ。鄭氏太極拳の𡘷路から七つのポーズを選び出し、これを長時間取ることで掤勁を養える、ということをうたった太極拳本である。僕は内家拳の素人なのでこれについて良いとか悪いとか言うことはできないが、非常に興味深く読んで、またポーズの真似などをしている。

 七つのポーズはすべて上半身をリラックスさせ、片足に強い負荷が生じる仕組みになっている。これらのポーズをとると、かかとからふくらはぎにかけて、強めの筋トレをやっているような疲労感を感じる。気感なのか勁なのかあるいは気のせいなのか知らんけど、身体の表層や深層でうごめくものを感じる。とくに「丹田を満たす」のに効果がありそうな感じを受ける。僕がずっと難儀してきた課題だ。

 著者も站椿のことに触れているが、これは明らかにヨガの座法、高藤仙道の馬歩、站椿功に連なる練習法だと思う。中国のとある道場では、片足立ちのポーズを左右あわせて二時間やらせるというが、なるほど毎日それだけやれば快速で伸びるに違いない。そこで僕も少々頑張ってみるかと思い、筮竹を分けたところ、なんと節上六を得た。苦節貞凶。

 七つのポーズはすべて片足に負荷がかかる構造をしていると述べた。これが勁発生のポイントだということだと思う。他方、内家拳はすべてリラックスを重視する。足に負荷がかかれば当然そこはリラックスしない。実際のところ慣れないうちは動いただけで気感が消滅してしまう。𡘷路をしながら気あるいは勁を感じるというのはすんなりできるものではない。内家拳とは気あるいは勁を馴らしていき動きながらひいては負荷がかかった状態でも感じ取れるようにすることを課題の一つとしていると見受けられる。

 従って、馬歩のような根性論の修行はそのコンセプトに反する。ヨガではひとつのポーズを取り続けて疲労と緊張の極限に達したときに高いレベルのリラックスが得られると説く。馬歩は恐らくこのようにして緊張とリラックスを高いレベルで折り合わせて勁を引き出そうとする試みで、これはこれで一つの考え方なのだと思うが、メレディス老師は太極拳をリラックスのアートと捉えている。努力と根性のすえに意図せざる現象として起こるリラックスの実現より、意志のもとで粘り強く緊張を解いていく姿勢を是としたのだろう。つまりプロセスを重視したのだと思う。

   ***

 奇門遁甲を学び、孫子を読み、太極拳の真似事をし、おれはいったいどこを目指しているんだという気がしないでもないが、まあ楽しければいいんじゃないかとも思う。ゆるーく生きていきたい。続きを読む

 太平洋戦争における日本軍の失敗を分析・論評した「失敗の本質」の続編という位置づけなんだと思うが、今作では、近現代の戦争のうち目覚ましい逆転に終わったものを五つ(毛沢東のゲリラ戦、イギリスの対ナチス防衛戦、ソ連のスターリングラード防衛戦、エジプトの対イスラエル・シナイ半島奪還の試み、朝鮮戦争、ベトナム戦争)とりあげて概略をまとめ分析を行っている。

 これを読んで思い出したのは、孫子の冒頭に、戦争の見通しを立てるにあたってどちらの君主に正義があるか、人民から支持されているかをよく見極めるべし、とあったことだ。また家康公の相談役であった本多佐渡守正信は、戦は正しいほうが勝つと端的に述べたそうである。これだけを聞くと、ンなわけあるかい、悪が正義を虐げた例など幾らでもあるだろ、という人も多いかもしれない。しかし六つの逆転劇をよく検証してゆくと、「正義」は決して軽視できる問題ではないと分かる。

 もちろん国際政治とは過酷なもので、つねに神が怒りの拳をふりあげて悪を懲らしてくれる訳ではない。そもそも「正義」とはなにかという点も、単純な話ではない。

 毛沢東はのちに文化大革命などをやらかして悪名を極めるが、内戦の頃は、歴史的にずっと虐げられてきた農民の味方だった。農民は大地主から土地を借りており、生活は苦しかった。そこで毛沢東は共産主義をかかげ、地主から土地を奪い、農民に与えると約束した。これにより農民は死に物狂いで毛沢東のゲリラ戦を支持した。

 ナチスはベルサイユ体制で多額の賠償金を課されて首がまわらなくなった結果起こった、一種の過激主義だが、ユダヤ人を虐殺し他国を侵略するなど、到底正義にかなったものではなかった。結果、イギリスやソ連の人民は奮起してその征服に失敗した。

 ベトナム戦争についても、アメリカが支援した南ベトナムは腐敗が横行してかならずしも国民の支持を得ていなかった。反共も民主主義も結局はベトナム人にとって押し付けに過ぎず、民意を得ることができなかった。アメリカ人も、ベトナムで民意を得ていたら戦意を失わなかっただろう。民意を得ていないことを知って戦意を喪失した面が大きいと思う。

 正義は勝つという単純な理屈を主張している訳ではない。普遍的な正義にかなえば必ず民意を得る。民意(注。不満や不安に基づく求心力ではなく)を得た勢力は地の利を得る。組織は健全性を保つし、普遍的な正義に沿う指導者は不思議と創造性を発揮する。その点、チャーチルは見事という他ない。国民を励まし、ゆるぎない信念を示し、制空権を明け渡さないという目標を絞ってこれを貫徹した。ヒトラーなども有能な指導者ではあったと思うが、肝心なときに気まぐれや猜疑心、頑迷さを発揮して大戦略を誤った。他方、スターリンは酷い指導者であったと思うが、存亡の危機に際しては謙虚になり、有能な軍人や側近に耳を傾けて、逆転に成功した。

 恐らく、(一時的であろうと)普遍的な正義にかなう人物は心が安定し、そのお陰で潜在意識の創造性を発揮しやすくなるのだろう。ひるがえって我らの戦前日本は、この創造性にめぐまれず、肝心の海戦で大敗し、その後は忍耐と根性だけで工夫もなく、ずるずると敗戦していった。口では八紘一宇というが中国や東南アジアでの振る舞いは西欧の植民地主義と大同小異にすぎず、結局は石油を調達したかったにすぎなかった。太平洋戦争の開戦前夜の日本は、普遍的な正義にかなっていなかったのだ。残念だが、そういうことだと思う。

(日本が日清戦争・日露戦争に勝利できたのは、清朝やロシアが普遍的正義において日本より劣っていたというだけの話だと思う。より普遍的正義にかなった国と戦っていたら、普通に負けていたのではないか)

 日本では某安倍が「うちゅくしい国」を掲げて10年政治をやり、ネトウヨに毛の生えたような保守たちが熱心にこれを支持していたが、このあいだGDPはほとんど伸びず、生産性は他国に追い抜かれるばかりである。論文の引用数も年々減少の一途だ。「うちゅくしい国」とやらが国民の創造性を刺激するような普遍的正義にかなった理念でないことは明らかだ。

 日本は新しい価値観を見つけ出さなければならない。ダヴィデは理想を持たない民族は亡ぶと言ったらしいが、このままいけば日本もそうなるだろう。

   ***

 ではウクライナ戦争はどうか。明らかにロシアは普遍的な正義にかなっていないと思う。ただ懸念がふたつある。第一に、西側はロシアと比較してそれほど優れた正義を持っているのか。西側に不満を持つ国が少なくないのも現実である。これは相対・比較の問題であり、西側もロクでもないということになれば戦争は長引くのみだろう。第二に、ナチスは最悪の政党だったがポーランドに侵攻してすぐに滅んだ訳ではなかった。一時はヨーロッパ全土をほぼ支配するところまでいった。いずれプーチンのロシアが高転びに転ぶことは間違いないだろうが、それが近い将来とは限らないことには留意する必要がある。

 二月にロシアがウクライナに侵攻してから、半年以上が過ぎた。連日のごとく、ロシアの行為が国際法に違反していると国連のだれそれが言った、アメリカの高官のだれそれが言った、ゼレンスキーが言った、と報道されている。それについて我々は色々と論じる。ロシアは断固許せない。そのようなことをSNSで述べると、じゃあおまえさんは東ティモールのとき、ルワンダのとき、シリアのとき、コソボのとき、腹を立てたのか、とやり返されることがある。なるほどその通りだ。国際情勢に関心を寄せているつもりがじつはまったく無関心で、世界の悲劇のうえを素通りしてきた。それどころか、考えてみれば、自分は国際法のなんたるかすらろくに知らない。このままボンクラとして好き勝手に思い付きを言って死んでいくのだろう。そのことを認識した瞬間、急に心細くなってきた。

 ほとんど衝動的に、アマゾンで国際法関連の新書を注文しようと思って検索したら、それらしきものがこれしかひっかかってこなかった。しかし何故か強烈に惹きつけられた。聞けば著者は東大の名誉教授で、本書を書き上げて亡くなったらしい。本書の刊行には並々ならぬ思い入れと使命感があったようで、それは冒頭にも述べられていたし、巻末の娘さんによるあとがきからも伺えた。

 環境問題や人権問題など、さまざまな問題が歴史的経緯も含めてさまざまな角度から論じられているが、筆者が論じたかったのは最終章の戦争と平和に尽きるんではと思う。国連は無力である、国際法は無力である、と言われる。安保理は拒否権ひとつで動きがとれなくなるし、それゆえ大国は国際法に反しても断罪されることがない。そのせいで世界は不安定化している。ロシア周辺、中国周辺を見ればそれは明らかだ。昔はアメリカもそのようなエゴをむきだしにする国だった。それゆえ、国際法などなんの意味もないと主張する人が増えている。しかしそれは結論を急ぎすぎではないか、と著者は云う。

 国際法は古くはエジプト王朝とヒッタイトの間に結ばれた和睦の条約に始まる、という説があるらしい。要するに国家どうしの約束、合意事項である。国際法とは、それらに当時の倫理観や慣習などを含めた、その集積である。中世を経て近世を経て植民地・帝国主義の時代を経て、二度の世界大戦が勃発しては終焉し、そのあいだ国家は衝突をくりかえし、二国間・多国間でさまざまな話し合いをし、合意を重ねて、問題を解決してきた。あるいは解決に失敗してきた。そうして国連が生まれ、現在に至る。国際法とはある意味、人類が良識を胸に抱きつつ惨事を見ては胸をいため、理想と現実のあいだで煩悶してきた歴史そのものである。国際法に反するというのは、その人類の重い歴史に逆らうこととイコールと言ってもよいのではないか。

 私見だが、古来より国際的な慣習、国際法に反することを平気でする国家は一時的な隆盛を誇っても、長い目で見ればろくな目に遭っていない。明治のころの日本は欧米列強にわれらは文明国であると認めさせたくて、必死に国際法を遵守した。そうして興隆した。が、第一次大戦後、満州や中国で国際法に相次いで違反するようになり、坂道を転げ落ちるように国運は衰退していった。

 たしかに国際法に権威はあっても確たる強制力はない。国際法を手掛かりに平和を実現しようというのは、賽の河原に石を積むがごときものだ、と著者は云う。その歩みはカタツムリのように遅いけれども、しかし人類は着実に前に進んでいる。そのとおりだ。僕はこれを読み、おそらく地球の近未来は、戦争と平和の問題にしろ、環境問題にしろ、人権にしろ経済格差にしろ、一筋縄ではいかないだろうが、少なくとも人類はけっして前進をやめないだろうし、進んだ分だけ確実に景色は変わっていくはずだ、というふうに、いくらか心強く思うことができた。読んでよかった。

 岩波新書。いずれ李鴻章と曾国藩の伝記なり新書なりを読もうかなと思って、その基礎知識として読んだ。とくに曾国藩。この人は著名な儒家である一方、高級官僚・政治家・軍人として清朝の安定と延命に尽力した。つまり実践の場における儒教そのものといってよいと思う。いくら経書を読んでも、儒教を学んだ人が実際にどのように生きたのかを見なければ、儒教を知ったことにはなるまい。むろん一例だけでは分からない。その点、清朝末期はじつに面白い時代だ。清朝の政治家はほぼすべて科挙をパスした人たちであり、典型的な儒教インテリぞろいだ。その人たちが、列強に蚕食される清朝を懸命に支えていく様は、ときに滑稽で固陋ではあるけれども、人間らしい苦悩と儒家としての強烈な責任感がたしかに垣間見える。林則徐などはアヘン問題に毅然と対応してイギリスと軋轢を起こし左遷されるが、そのイギリスの軍人やアメリカの公使から敬意を払われたともいう。イギリスはアヘン戦争で清朝を食い物にしたが、じつはイギリス国内にはこれに反対する人も多かった。帝国主義の強欲のみがこの時代を支配していた訳ではなく、他方で愛国者の良識もたしかに存在し、それらのあいだに鋭い相克があったのだ。

 筆者の筆致は、清朝を美化するでもなく、さりとて弱肉強食を強調するあまり筆運びが下品になるでもなく、丁寧かつ公平、客観的なもので、好感を持った。中国史といえば某ネトウヨ作家の反中の立場から書かれたものが流行っているようだけれど、こういう本こそ読まれて欲しいと思う。こういう視点から日中問題を考えたほうが、両者にとってかならずプラスになると信じる。全体的に学術的なたんぱくな筆致ではあったけれど、筆者の、民衆の活気を描く筆にはほのかな温かみと、快い明るさがあった。それらはネトウヨには伝わらんだろうけど歴史好きの人になら必ず伝わると思う。

 率直な感想を言うならば、序盤モノ足らず(自殺願望を抱えた青年の描写にまったく迫力がない。あんなきれいな設定は嘘くさいわ)、中盤みごと(展開とシーンの継ぎ方が相変わらず素晴らしい。ページをめくる手が止まらなかった)、終盤尻切れ(もっとなんというかこう、羊をめぐる冒険みたいなぐりんぐりんの、けれんみをタップリ利かせたような、ちょっとくらい話が怪しくなってもいいから、そういう展開を期待してしまったので、読み終わってがっかりした)。

 ネタバレを控えたいので詳しくは書かないが、僕はホモ描写が嫌いだ。いや、べつに同性愛のひとを差別する考えはまったくないが、小説にいきなりその手のシーンが出てくるというのは勘弁して欲しい。ところがどういう訳か、小説のうまい人ほどそういう登場人物を出し、そういうシーンを入れたがるから困っている。手っ取り早く文学的な味を出せるからだろう。その安易さも気に入らない。近親相姦的なネタなどもそうだが、いい加減手垢がつきまくってるのだから、昔の作品ならともかく、平成令和以降の小説ではやめて欲しいものだ。女性が書くんならまだしも、男の作家はもうやめなさい。冷静になって読み返したとき普通に気持ち悪くないか?(とはいっても、本作においてはディテールの一部に過ぎないが)

 村上春樹の小説は、短編を別にすれば、ほぼ全て、良くも悪くも、あーこれ書きながら展開を考えてるな、としか思えないのばかりだが、この作品はそれが顕著だったように思う。そういう繋がりの悪さがいくらか感じられた。中盤にみごとな伏線的エピソードがはめこまれて、これが終盤どう絡むのかずっと気になっていたが、とうとう絡まずに終わってしまった。これもでっかいマイナスポイントだ。多分春樹もそれは認識していながら、終盤、核心的な登場人物に対する思索・想像(そこから展開をヒネリ出す訳だ)にイマイチのめりこめないなにかが彼のこころのなかにあったんじゃないかと推測する。春樹マニアにならその理由が推測できるのかもしれないが、僕はそこまで突っ込んで考えるつもりはない。物足りなかった、と、いち読者として文句を垂れるだけだ。カネ返せ!

 しかしながら相変わらず読み味はいいし、ほどよいエロはあるし、男と女とそれを囲む優しい人たちの感じのいい話であり、面白く読めた。他の作品と比べたら決して完成度は高くはないと思うが、春樹が好きな人なら読む価値はある。そう思ったのは決してお世辞ではなく、読了して即、1Q84と騎士団長殺しをまとめてポチったくらいだ。

このページのトップヘ